満身創痍のひとり歩き

 


あああああああーーーーーーーー

青く広がる空になりたい。空を自由に飛びまわる鳥になりたい。山になりたい。春は緑になりたい。秋は真っ赤に染まりたい。森の奥をひとりで歩いて月に手を届かせたい。そんでそのまま星になりたい。

 

自分との戦い。何よりも、誰よりも、自分との戦い。絶賛戦闘中。「何も考えないこと」は至難の業です。ずーーーーっと何かしら考えています。もう頭百個あっても足りません。

 

こころの中にあるものが、なかなか変わってくれません。やっぱり、むずかしい。何年もずっと自分のこころにそいつはいて、すぐにダメダメ野郎くんになってしまう。

 

アイデンティティ的なところが、とてもむずかしい。まったく、もう、男らしくとか、女らしくとか、だれが決めたんだ。本当にもう、うんざりしちゃうね。男も、女も、いやだね!自分らしく、やで。

 

 

 

みんなが普通にできることができなくなるときがある。こころにいるそいつができなくさせてくる。

 

なんか、すべてが、怖いのです。夜空が暗すぎて、朝日が眩しすぎて、怖いのです。よく分からんけど、ただ漠然と、悲しくて苦しくなることがある。見えない何かに怯えてしまうことがある。一日の終わりに、あぁ今日もまた生きてしまったなとか思う日が続いたりする。さっきまでの元気な自分が突然いなくなって、悲しくなる。自分ではない自分が、自分をかき消してる。ずっと喉に小石がたくさん詰まってる。夜になると、その小石たちが崩れて、流れ出る。これ以上沈んだらあかん、これ以上落ちたらあかん、耐えろ耐えろ、って、なんというか、そういうのを、自分に言い聞かせることで、なんとかうわべの安定を保ってる。そいつが、自分をこんなに掻き立てて、惑わせて、地の底に陥れる。だけど、あまりよくわからない。

 


ときどき、突然すべてのことが怖くなる。目の前が真っ暗になって、頑張っていることも、楽しみにしていることも、全部どうでもよくなる。どうでもよくないのに、どうでもよくなって、もういいや、どうにでもなれ、ってそんな考えだけが、先走りしてしまう。自分を形づくるもの、そのどれかがひとつでも崩れると、途端にすべてのことが、どうしても、分からなくなる。もしかしたら、全部うそなんじゃないか、って怖くなる。傷口や涙を拭うハンカチも、誰かと繋ぐための手も、大切な人への大切なきもちも、全部失くしてしまう。きもちが沈んで、さっきまで聴いてた音楽が聴けなくなってしまう。実のところ得体の知れないそいつにこころを絞られてるのだと思う。指一本で潰せそうなくらい、強く強く削られているのだと思う。息をするのが苦しくなる。なんか、自分が何に落ち込んでいるのか、どうしてこんなに沈んでしまうのか、絶望する理由が分からない。ただただ、目の前が薄気味悪い色になって、狭く細くなっていくのだけ分かる。自分が見えなくなって、また怖くなる。眠れない夜が続いたりもする。眠りたくても、足を掴まれてるような、そんな感覚に陥ったりする。眠れたと思っても、眠れていないことがある。眠っても、怖い夢ばかり見る。

 

だけど、どれだけ暗い夜を過ごしても、それでも必ず朝はやって来る。だから、そのたびに自分を調整する。それでもし何か少しずれていたら、その軌道を修正して、もう力がないのに無理に形を整えようとしてしまう。たぶん、乱れたままだともっと怖くなるから。暗い場所、狭い場所、天井が低い場所、大きな音、大きな声、血、傷、視線、人、雨がふりしきる朝、怖いと思うものがより一層怖くなる。

 

 

そんなことが何度も起きている。


目の前が暗くなると、大切な人のことさえ全部捨てたくなる。捨てきれないくせに、捨てたくなる。全部放り投げ出して、勝手に雑になって、傷つける。自分が一番分かっているはずなのに、何度も何度も同じ過ちを繰り返す。だけど、それでも、こんな自分のことを好きだと言ってくれる人がいる。あなたといるととても楽しいよ、って何年経っても、そう言ってくれる人がいる。優しくしてくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。受け止めてくれる人がいる。何も言わずに、ただそっと、寄り添ってくれる人がいる。それなのに、どうして自分はそんなあたたかさや優しさに応えることができないのだろう、踏みにじるようにしてしまうのだろう、粗末にしてしまうのだろう、ってよけいに悲しくなる。そして、そんな人たちのことを適当にしてしまった、その罪悪感にまた潰されそうになる。今すぐひとりひとりにあのときはごめんね、って言いに行かなければならない気がしてくる。 

 

だけど、そのくらい弱い自分なのに、それでも、ひとたび闇を抜け出せば、人に手を差し伸べることが好きになる。誰かを助けることは、きっと自分のためで、あたたかいこころでいることも、きっと自分のためで、これは、何があっても、絶対に、曲げることができないのだと思う。自分が思っているよりも、自分やあの子は大丈夫じゃなくて、だからこそ、どんなときでもそれに気づくことができる人でありたい。こんな自分でも、誰かのためにやらなければならないことがたくさんあるような気がして、自分なりに頑張ってみたいことや、味わってみたいものができたりする。だから、今もとりあえず生きてよう、誰かのために努めてみよう、ってときどきそう思えたりする。

 

 

 

新たな発見。言葉がなくとも、救える感情がある。手を繋ぐだけで、救われることがある。時間はまあまあ解決してくれる。何かと比べて、自分はどこで間違ってしまったのだろう、と落ち込むことがあるけれど、そもそも自分は元からこうであって、なにも間違っていないし、踏み外してもいないのかもしれない。すべてを上手くこなすことが、良い意味でも悪い意味でも、自分を掻き立てる。そして自身への崇高さを示してくれる。だけどそれは、ときどき自分自身を縛りつけることがある。自分と他人との考え方のギャップに、勝手にショックを受けることが多い。必ず最後に愛は勝つことは、あまりない。

 

 

なんか色々失っておりますが。

こんな自分にもくだらないことで笑いあえる人がいる。「休んだ授業のところ一緒に勉強しよう!」と誘ってくれる人がいる。許してくれる人がいる。どんなに遅くなっても、ずっと待ってくれる人がいる。「頑張らなくていい!」「ゆっくり!」「焦るな!」と言ってくれる先生がいる。何も言わずにそっとしておいてくれる家族がいる。話を聞いてくれる家族がいる。ふさぎ込んでいるときに「公園へ行こう!」「山へ行こう!」と外へ連れ出してくれる家族がいる。「歌を歌おう!」「美味しいドーナツ食べよう!」と安らぎをくれる家族がいる。「もう高校生なんだから」とか、「もうそんなことをする歳じゃないでしょ」とか、そんなことは絶対言わないでいてくれる。いくつになっても同じ目線で、変わらない心で、受け止めてくれる家族がいる。終わりの見えない、真っ暗なトンネルをくぐっていても、それでも、なにか出来事を作ろうとしてくれる家族がいる。

 

大切を大切にしたい。なにがあっても信じていきたい。

 

 

 

もうすぐ、2021年になる。せっかく一年間を頑張ったのに、また新しい一年が始まってまうんか、ってもう2021年のことが嫌いになりそう。

 

 

セカオワの深瀬さんがおっしゃっていた。

 

「頑張れていないって、頑張れていることより、すごく苦しいんです」

 

今のとこ、人生で一番胸を打たれたことば。頑張っていないときは、本当に毎日がさみしい。無乾燥で、無意味に感じる。空っぽになる。だから、どんなにしんどくても、頑張っているときのほうが何か生きる意味をもたらしてくれる。そんなふうに考える限り、たぶん頑張らない、ということは一生できない。だけど、まぁ、いつかは、頑張らないことにも意味があるのだ、とか、なんというか、そんなふうに思えるときがくるといいな、とか思ったりする。

 

 


来年は、走りすぎて疲れたら、一度どこかに腰かけたり、立ち止まったり、ほどよくブレーキを効かせながら、ぼちぼちとやっていきたい。まあ、野球でいうとダルビッシュ投手のスローカーブって感じですね。ダルビッシュ投手のスローカーブみたいに、キレと緩急をつけて走ったり歩いたりしていきたい。

 

2020年、お疲れ様やで。

 


ほなねー。👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻👋🏻