さしあたり

 

 

「自己理解」とは「他者理解」であるか


1.はじめに
新型コロナウイルスの感染拡大防止に講じ、「ステイホーム」が政府によって呼びかけられた。人々は外出の自粛を余儀なくされ、自宅で過ごす時間が急激に増えた。また同時に、他者と触れあう時間が大幅に減り、親しい友人、離れて暮らす家族にさえ、容易に会うことができないとても耐えがたい状況が続いた。一方で、そのような会いたい人に会えない状況、いわば他者との交わりがほとんど断たれた状況であるからこそ、他者のことを思い、そこから他者を理解しようとする時間が以前に比べ増えたように思われる。またそのように他者のことを考え理解することで「他者に相対する自分」が映し出され、自己を理解する機会につながったという人も多いのではないだろうか。ゆえに、「他者のことを知ること」と「自己について知ること」、いわば「他者理解」と「自己理解」には繋がりがあるように思われる。
そこで、本レポートでは、「自己理解」と「他者理解」の繋がりについて、先行論文に併せ、古代ギリシアの哲学者プラトンの『饗宴 副題:恋について』を本論で取り上げ、論じていく。


2.問題の背景と主張
遠藤(2020)は、自己と他者について、「『自分』は自己完結している存在ではなく、社会や時代の中で常に他者と生きることを通じて形成されている存在であり、『私』は常に他者とあるのだ」と述べている。ゆえに、「自己理解」と「他者理解」は深く関わっていると考えられる。さらに、榊原(2022)は、「異なる背景的意味を携えた人と出会うと、違和感を伴ってその人の背景的意味が際立って認識され、それにいわば逆照射される形で、自分にとって『当たり前』だった自分の背景的意味も初めて意識化される」と述べ、「他者を理解することで、自己のこともより深く知ることになる。そして自己自身をより深く知ることは、他者をさらにより深く理解することにも繋がる」と主張する。このように、自己は常に他者と存在し、他者を見つめることで自己をあらため、そこから自己を知ることができるというように考えると、もはや「自己理解」とは「他者理解」であると言えるのではないだろうか。


3.「他者とのコミュニケーション」が果たす役割
前述した二者の主張に沿って考えると、「自己理解」とは「『絶対的になされるもの』というよりは、自分ではない何かに触れることで『相対的に得られるもの』」であると言える。では、「自分ではない何かに触れる」とはどういうことだろうか。それは「他者とのコミュニケーション」である。
コミュニケーションについて、遠藤(2020)は、「コミュニケーションの目的は『他者に理解してもらうこと』『他者を理解すること』にある」と述べている。
また、アメリカの心理学者アルダファーによって提唱された『ERG理論』において、「他者から認められ、他者から愛情を受け取ることで『人間関係の欲求』が満たされると、自尊心が高まり、自己実現が果たされ、それにより『成長欲求』が満たされる」と指摘されている。つまり、他者から認められ、他者から愛情を受け取るためになされる「他者とのコミュニケーション」を通じて、自尊心の向上や自己実現に伴う「自己理解」がなされるのである。ゆえに、「自分ではない何かに触れることで相対的に得られる『自己理解』」には、「他者とのコミュニケーション」が必要不可欠なのである。
したがって、「他者を理解すること」を目的とする「コミュニケーション」を通じて、自己を理解することができるのであるのだから、やはり、「自己理解」とは「他者理解」であることを説明することができる。


4.プラトン『饗宴:恋について』から考える「自己理解」と「他者理解」
前章では、「他者とのコミュケーションを通じて自己理解が得られる」ということを論じた。しかし、古代ギリシアの哲学者プラトン『饗宴 副題:恋について』(以下、『饗宴』とする)における思想に沿い、より踏み込んで再考すると、「『自己理解』と『他者理解』にはもはやコミュケーションなど必要としない」ようにも考えられる。
そこでは、アリストパネスの演説において、次のように述べられている。

原始、人間は男と女と男女(両性具有)の三種がいて、それぞれ男男、女女、男女が背中合わせに二体一身の状態だったわけだが、愚かにも神々に挑んだ為にゼウス(全知全能の神)によって片割れを切り離されてしまい、今の我々の姿になった。

だから我々は半身の片割れを求めるようになり、男らしい男は男を、女らしい女は女を、中途半端な多くの人間は異性を求めるようになった。

つまり、現世にはかつて二体一身であった二者が存在し、「目の前にいる『他者』が自分と一心同体の存在である」といったことが有り得るのである。(但しここで示す「他者」とは、「不特定多数の『他者』」ではなく、自身の頭に思い浮かぶ「特定の『他者』」である。)
また、『饗宴』における思想を反映していると言われる、アメリカ人作家アンドレ・アシマンの小説『Call Me By Your Name』(邦題:『君の名前で僕を呼んで』)では、題名にもあるように惹かれ合う二人の青年が「自分の名前で相手を呼ぶ」ことで、自らの「片割れ」と一体感を求め合う場面がある。さらに本書には次のような一節がある。

君の体を知りたい、君がどう感じるのか知りたい、君を知りたい、君を通じて僕自身を知りたい。

この一節から、『饗宴』における思想が本書に表れていることがより明確に理解することができる。特に「君を通じて僕自身を知りたい」といった表現には、「自己と『片割れ』としての他者は一体している」といった『饗宴』の核となる思想が顕著に見受けられる。
またスペイン語のことわざに「Tu eres mi media naranja(「あなたは、私のオレンジの片割れ」)という有名なフレーズがある。これもまた再三にわたり述べてきた「自己と他者の一体性」を指摘する『饗宴』における思想を根源としている。
このように『饗宴』における思想、及びそこから派生される小説における一節やことわざに準じて考えると、やはり「自己」と「他者」には繋がりがあるように見受けられる。また同時に、「片割れ」においては、「自己」と「他者」は一心同体の存在であり、コミュケーションを介すことなく、「自己」のこととまさに同じように「他者」のことを、「他者」のこととまさに同じように「自己」のことを理解することができるのである。ゆえに、ここでは、「自己理解」と「他者理解」は繋がりがあるどころか、もはや同一のものである、といったかなり踏み込んだ考察が可能となる。


5.おわりに
「自己理解」と「他者理解」の繋がりについて、「自己理解」は、他者から認められ、他者から愛情を受け取るためになされる「コミュニケーション」を通じて得られるものであることを論じた。また「自身の『片割れ』としての『他者』と『自己』は一心同体の存在である」といったプラトン『饗宴』における思想、及びその思想が反映された小説における一節やことわざを挙げ、「『自己を理解すること』と『他者を理解すること』は同一である」といったさらに掘り下げた考察をおこなった。
ゆえに序章で示した「『他者理解』と『自己理解』には繋がりがある」ということが確認された。また「他者を理解すること」を目的とする「コミュニケーション」を介することで、自身の「片割れ」である「他者」に出会い、「『自己理解』と『他者理解』の同一性」を肌で認識することがあるかもしれない。ゆえに自分を見失いそうになった時、ひとりで考え込むことよりも、むしろ他者との関わりが重要であるといえるだろう。見失った「自己」を「他者」が見つけてくれることがあるかもしれない。


 

 

あいみょん

 

 今年デビュー五周年イヤーを迎えたシンガーソングライター・あいみょんが地元、兵庫県西宮市に帰ってきた。ワンマンでの弾き語りコンサートを開催するのは、甲子園の誇る長い歴史のなかで初めての快挙である。なんでも、彼女の実家は「屋上から光る球場が見える」ほど、甲子園のすぐそばにあり、幼い頃にはしばしば父と阪神戦を見に行ったり、西宮市の小・中学生が参加する運動会で実際に甲子園のグラウンドに立つ機会まであったそうだ。甲子園はあいみょんにとって特別な思い出の地なのである。

 そんな甲子園でライブを開催するにあたり、あいみょんは「インディーズ時代から、そこを目指して頑張るぞという感覚ではなかったかもしれないが、シンガーソングライターを続けていく上で、道の途中には甲子園球場というものがあるというイメージだった」と語っている。また『サーチライト』というタイトルは、「一人でステージに立つから、ピンスポットライトを私だけに当ててほしい」という思いで付けたという。
 来る当日、広い広い甲子園球場を埋めつくした4万5000人ものファンが、ひとまわりもふたまわりも大きくなって地元へ帰ってきたあいみょんを割れんばかりの拍手で迎えた。

 

 

 

 このライブの特筆すべき点は、やはり「甲子園球場で開催したこと」である。これまでホールツアーやアリーナツアー、フェスや歌謡祭、紅白歌合戦など、数多の公演を成功させてきたあいみょんだが、シンガーソングライターを夢に見ながら過ごした地元、西宮市に佇む甲子園球場での公演はこれまでにない特別な思いが込められたものであっただろう。実際にライブ前のインタビューで彼女はこのライブについて「自分が選んできた道や選択が間違っていなかったと思える日にしたい」と語っている。つまり彼女にとって、甲子園でライブをすることは、「夢の『答え合わせ』」なのである。


 この西宮市で過ごした自身の学生時代を「学校が苦手で、まわりの友達が将来の夢について話していても、自分にはなにもないって悲しかった」と振り返る彼女が「国民的シンガーソングライター・あいみょん」となってここに帰ってきたことにはやはり心揺さぶられるものがある。4万5000人が放つライトで満杯に照らされた球場のまさしくど真ん中で、このライブのために書き下ろしたという新曲『サーチライト』が披露されたときはどうしようもなく胸が熱くなった。「自分にはなにもない」と思うことはむしろ「なにかになれる証拠」であることを体現し、ここに4万5000もの光を集めたあいみょんはまさに西宮市のスーパースターといえるだろう。

 

 個人的な話になるが、コロナ禍でなかなかライブに足を運べず、いつも画面のなかの世界だった彼女の音楽が、ひたすらイヤホンで聴くしかなかった彼女の音楽が、制限されることばかりで不安定になってしまったこころを何度も救ってくれた彼女の音楽が、すぐ目の前にある、画面もイヤホンも何も通さずに耳に聴こえるところにある、ということが、ずっと家にいた頃には考えられないことで、この上なく胸がいっぱいになった。


 またセットリストも「地元でのライブ」に寄り添ったものとなっていた。特に中学生の頃、初めてギターを持ったときに作ったという『分かってくれよ』から最新曲『サーチライト』の流れには胸が熱くなった。石崎ひゅーい氏のお言葉を拝借すれば、まさに「あいみょんの歴史を全部覗き見しているようなセットリスト」であった。学校を中退し、先生や友人に夢を笑われた高校時代、誰も足を止めない路上ライブ、将来への不安や周囲への苛立ち、自分に自信を持てない苦しみ、夢を否定される苦しみをあいみょんは知っている。「苦しい」を知っている人は、やさしいことばを紡ぎ、「苦しい」を抱える人の胸に届くのは、「苦しい」を知っている人の声なのだとあらためて思った。


 行き場のない苦しみに苛まれた頃に作られた、ライブのときにのみ特別に披露される『tower of the sun』という楽曲の冒頭部分の『私があの人みたいにチヤホヤされる 天才やったら良かったのにな 良くも 悪くも 人生楽しいって思えるかもしれない そう言ったって私は私でしかないから ただひたすらに私として私を生きるだけ』という歌詞。苦しい人が自分の抱える苦しさに否定も肯定もせず、ただ苦しいを苦しいままに作ったものは、なによりも苦しくて、なによりも強いものなのであるのかもしれない。

 

 あいみょんが上京して初めて作った曲は『君はロックを聴かない』である。「この曲が聴かれなかったら西宮に帰ろうと思った」と後に本人が語るほど相当な覚悟で作られた。今では彼女の代表曲となった。そんな最も思い入れのある曲が最後に披露された。そのラストのサビであいみょんは観客に「みんなも一緒に歌って」と投げかけたが、声を出しての応援は禁止されているため声を出す人はいなかった。「声を出したいけど出せない」という行き場のない口惜しい思いが会場全体を包むなか、あいみょんは目を瞑って演奏を続けた。そして心が満たされたかのように幸せそうに微笑んだ。彼女にはあるはずのない大勢の歌声、ファンが心の中で響かせる精一杯の歌声がたしかに聴こえたのであろう。音というのはただ耳に聞こえるものだけでなく、心の中で鳴るものであるのかもしれない。以前、『映像と表現』の授業で映像学部の品田先生が「音は感性や知識からイメージされる」とおっしゃっていた。コロナウイルスによりライブやコンサートで声を出すことが禁じられ、思うように楽しめないところもあるが、その代償に私たちは「『心の中で鳴る音』を聴き出す感性」を手に入れたように思われた。

ふたり

 

 

 田中と山田。今日は仲直りのしるしにふたりで映画を観に来た。さっそくなにやら揉めながら座席を探している。

 

「ポップコーンはうすしおに決まってます。水と砂糖を熱しただけの甘味料にお金を払うなんて邪道でしかない。」
「山田さん、それキャラメルっていいます。」
「知ってる。」
「山田さん、うすしおなんてつまらないです。つまらないのはあなたの名前だけにしてください。」
「っな!君の名前もたいがいだろう!僕の名前は全国苗字ランキング…」
「あっ!あそこですね、席。」

田中はぶつぶつと小言を言う山田の手を引いて、席に座らせた。


「いや、僕の苗字は全国苗字ランキング…」
「あ、もうすぐ予告始まりますね。」
ふんと山田はキャラメルポップコーンを口に投げ入れる。田中は思わず少し笑う。


 予告が始まった。なにやら最近話題の海外アニメが映画化されるらしい。
「僕、こないだこのアニメの実写版を吹き替えで観ました。めちゃくちゃ面白かったな〜。」
「なっ!なっ、、田中くん、ちょっと待ってくれ。君は今この世で一番恐ろしいことを言っている。」
きょとんとする田中を尻目に山田は続ける。
「まずね、アニメの実写版をその原作を観る前に観ちゃだめなんだ。それも吹き替えなんて…あまりにも邪道がすぎる。」
「そんなにだめですか。」
田中は眉をひそめた。


「僕は今、君がとても恐ろしい。」
「僕もあなたがすごく恐ろしいです。」
「なぜ君が僕を恐ろしいと思うんだ。」
「いや、山田さん、さっきからキャラメルポップコーンのキャラメルがいっぱいついたやつばっか食べているので。」
山田は我に返るように手を止める。


 予告の前にCMが流れた。なにやら社長さんが自社の高機能便器とやらをプレゼンしている。
「映画を観る直前に便器を見せるなんてどうなっているんだ。尿意しか催さないじゃないか。」
「山田さん、その発言が尿意を催します。」
「…すまない。」
「いえ。」
少し黙り込む田中と山田。


「てゆか、なんか、」

「なんだい。」

「いや、あのなんか、山田さんって映画中にトイレに行きたくなったらどうします?」
「映画中にトイレに行くなんてそんな邪道僕はしない。」
「なるほど。僕は行く派です。」
「すごいな君はさっきから。」
「なにがですか。」
「君は世界中の邪道を背負っているのかい。」
「世界中の邪道背負ってません。」
田中は苦笑しながら続けた。


「トイレ我慢したら映画に集中できなくなるじゃないですか。」
「田中くん、君はなにを言っているんだ。君がトイレに行っている間に主人公とヒロインが入れ替わったり、隕石が落ちたらどうするんだ。」
「そんなのタイミング見計らって行けば大丈夫じゃないですか。」
「映画のタイミングを見計るなんてそんなこと誰にもできない。もし見計れるとしたら、その映画はつまらないね。君の名前くらい。」
「っっなんなんですか!僕の苗字は全国苗字ランキング…」
田中はハッとなった。山田はにやりと笑った。


 田中はわざとらしく咳払いをして続けた。
「とにかく僕はトイレ行く派です。」
「ありえないね。」
「トイレ我慢しながら見たらもうその映画の感想『トイレ』でしかなくなりますからね。」
「ありえないね。」
「ありえますね。」
田中と山田はため息をつく。


「どうやら僕と君は一生分かり合えないみたいだ。いや、もはや一生分かり合えないから僕と君なのかもしれない。」
「そうですね。僕と山田さんが分かり合えた日にはきっと主人公とヒロインが入れ替わって、隕石が落ちますね。」


 そうこう揉めているうちに予告が終わった。照明は消え、辺りは真っ暗になった。青色の背景をした画面の中央に『東宝』という文字が映る。いよいよ映画が始まるようだ。
 すると、そのとき、おじさんがバタバタと一人駆け込んできて、ふたりの後ろの席にバタンと座った。
「ションベン行っといてよかったぁぁぁぁ。」
おじさんは言う。


 田中と山田は思わず顔を合わせる。
「なんか、僕は君とはずっとこういう仲でいたいかもしれない。」
「僕もです。」
映画が始まった。

僕は「うつ」だ。世間には、こころの病気として知られている。僕はみんなに避けられている。みんな、僕に出逢わないように生きている。僕をやっつけるためのお医者さんがいる。僕を対処するための薬がある。


僕はかつて、高校生の君にひどくまとわりついてしまった。僕に出くわした途端、君の目の前は真っ暗になった。君は、頑張りたいのに頑張れなくなった。当たり前にできていたことができなくなった。僕は君のことをどうしようもなく苦しめてしまった。


僕は、誰かと出逢うたびに、僕なんていなければいいのにと思う。みんなを苦しめるだけの僕に一体何の価値があるのだろうと思う。


だけど、君。もしかすると、君は、苦しいと思うことで生きているのかもしれない。「苦しい」を知っているから、「嬉しい」や「楽しい」を感じられて、「生きよう」と思えるのかもしれない。苦しいから、「大切」に気づくことができるのかもしれない。「大切」を大切にしようと思えるのかもしれない。僕に出逢うから、誰かのやさしさに触れられるのかもしれない。僕のことをよく知っているから、君はやさしくなれるのかもしれない。


だから、君がやさしくなれたとき、僕は、僕がここにいる意味を見出すことができる。ここにいてもいいのかなって少しだけ思うことができる。君と僕は、そんな関係でできているんだと思うんだよ。これからも君のやさしさを作るほんのひと部分が僕だったら、嬉しい。

朝、目が覚める。時計の針は五時を指している。予定より早く目が覚めた。あと一時間眠れる。ラッキー。


目が覚める。六時半。三十分寝坊。この世に二度寝に勝てる人なんているのだろうか。すぐに着替えて家を出る。


バスはもう間に合わないだろうか。半ば諦めながらバス停に着くと、ちょうどバスが来た。ラッキー。


学校に着く。一限目が始まる。困った。筆箱を忘れた。隣の席の子から声をかけられる。以前から話してみたいと思っていた子だ。シャーペンと消しゴムを貸してくれた。そして、友達になった。めちゃくちゃ嬉しい。


昼ごはんを食べて、次は、三時のおやつ。シュークリームのクリームをひとつもこぼさず食べられた。ラッキー。


そのまま、四限目まで授業を受けた。


帰り道。バスに乗る。ひと席だけ席が空いていたから座った。ラッキー。次のバス停で、おばあさんが乗ってきた。どうぞ、と席を譲る。「ありがとうね、よかったら、と袋を渡された。中にはゆずが五つ入っていた。胸がポカポカする。窓の外を見ると、月がやさしくほほ笑みかけてくれる。


家に着く。今日の夜ご飯は、大好きなクリームシチューだ。今日の金曜ロードショーは、大好きなホーム・アローンだ。今日のお風呂は、ゆず風呂だ。最後は、あたたまった体をお布団に委ねる。


もし、一日に呼び名があるとしたら、忘れ物をしなかった日よりも、バスの席に座れた日よりも、叙々苑で焼肉を食べた日よりも、今日みたいな一日を「いい一日」だと呼びたい。

徒然なるままになりません

 

 

 

 

小説を書いているけど全然進みません。それで集中しようと思ってカラオケボックスに行ったけど、一曲だけと思って最初にちょっと歌ったらなんか楽しくなってそのまま6時間半ぶっ通しで歌ってしまい、ただ歌っただけの人になりました。情けない。情けないという感情ほど情けないものはありません。自分のことを情けないと思ってしまうことが情けない。

文章考えるの好きですけど、文章考えるのめっちゃ嫌いです。言葉を繰り出そうと脳みそを搾り続けるあの感じ、真冬に雑巾絞るほうがまだマシです。

実行力がなさすぎて、このまま萎んで消えていきそうです。実行力がなさすぎて、クソデカ妄想だけがどんどん広がっていきます。


小さい頃に車の中でよく流れていた音楽を聴いたり、遠足とか給食の話をしたり、そうやってエモくなると、ことばの創造が爆発します。ノスタルジックは、創造の根源です。


「品のある人は自分語りをしない」らしいです。それなら、ほとんどの人、品ありません。いくつになっても、一気飲みとか、がぶ飲みができません。飲むとだいたい溺れかけます。

 

「踏み込みすぎない優しさ」がある人が世界で一番強いと思います。最近は嫌なことがあっても、まぁコロナ保険おりるしな!で相殺されます。感情に言葉を乗せるのが苦手なので怒るのめっちゃ下手くそです。好きな映画と音楽が合えば、人と人はずっと仲良くやっていけます。恋も会話も、互いが「勝とう」とすると破綻します。iPhoneの最新機能をあまり駆使しない人とか、ブラックジョークに笑ってくれる人とかといると、安心します。自分のことが分かりすぎて、逆に身動きが取れなくなります。本当の平和の象徴は、鳩でもVサインでもありません。干したての布団のおひさまの匂いです。恋をすると話すことが好きになります。気を遣いすぎて、隠しごとが増えていきます。「信じている人」と「何でも話せる人」は、同じじゃなかったりします。大人になればなるほど、分かっていたものが分からなくなります。むずかしいことがもっとむずかしくなります。

「負けたのは戦っていたから」「別れたのは出会えたから」で納得したい。「100%やる気を出せる本」を読むやる気が出ません。なにか救いがあって、「自分はこのままでいいんだ」と思えても、このままの自分で何をしたらいいのかが分かりません。「全てのことを頑張らなくていいんだよ」と言うのなら、全てのことを頑張らなくていい方法を教えるべきです。助言には重大な責任が伴うのです。「偉そうな口」には重大な責任が伴うのです。

やさしさには、二種類あります。心の余裕がつくるやさしさ。苦しさがつくるやさしさ。きっと、やさしい人があなたのやさしさに気づいてくれます。

この世で一番かっこいい人は、機転の利く人です。この世で一番怖いものは、失恋です。この世で一番苦しい言葉は、「私結婚しちゃうんだよ」です。この世で一番残酷な決意は、「好きだから会わない」です。この世で一番愛おしいものですか。そんなの「花火を見る好きな人の横顔」に決まってるでしょうが。

「嫉妬するなんて心に余裕がない証拠だ」とか言いますが、嫉妬するほど心に余裕があるのだと思います。

この世で一番苦しいことは、「こうしたい」と思う自分を自分でなかったことにすることです。たしかなことは、いつも自分のなかにあります。ただ自分の性質を説明するだけのことに「実はさ」なんて苦しすぎます。「話してくれてありがとう」「私○○に理解あるよ」「それもあなたの個性だよ」何様やねんと思います。「そういうこと」が、「そういうこと」のまま人に認知されて、「そういうこと」のまま消えていくことが悲しいのです。「許す」のはいいことですが、全部を許す人になってはいけません。


LINEがあっても手紙を書きたいし、車を運転できるようになっても自転車に乗りたいし、写真を印刷できるようになっても絵を描きたい、なんかそんな感じの気持ちがずっとあって、なかなか前に進めないことがあります。なんか、なんというか、ちょっとだけ、前を見ることが怖くなることがあります。でも、過去の自分が残したものが味方になったとき、階段をひとつ登ったんだと思えます。


夏が終わります。いろんな人といろんなところに行って、いろんな気持ちやことばを手に入れました。

みんなでお酒飲んで、海が見えるホテルに連れてってもらって、田中みな実みたいなサラダ食べて、昼夜逆転して、コロナかかって、ギター弾いて、映画みて、オールでドライブ行って、朝の海で花火して、花火大会行って、東京行って、ライブ行って、雨の中サッカーして、餃子ハマって、良い夏を過ごしました。

ちょっといいことってあるじゃないですか。駅のホームに着いたらちょうど電車が来たときとか、予定より二時間くらい早く目が覚めて二度寝するときとか、そんなときに感じる「ラッキ〜♬」みたいな幸せがずっと続いてる感じです。

幸せはとてもいいことですが幸せがいきすぎると、なんか悲しくなってしまうので、ラッキ〜♬くらいがいいです。

ふとしたときに、会いたいと思える人がいることの幸せ。たとえそう思える人がいなくとも、見たい、読みたい、聞きたい、そう思えるものがあることの幸せ。譲れない大切があることの幸せ。「明日はなにしようか」って考えられることの幸せ。当たり前に気づかないことの幸せ。幸せを幸せだと気づかないことの幸せ。


余裕ができると、人を愛することができます。愛は心の余裕でできています。心の余裕は、「愛する心」です。「エモい」は、心に余裕がある証拠です。


苦しいときに自分を認めてくれることばに出会うことが、人生の醍醐味です。