さしあたり

 

 

「自己理解」とは「他者理解」であるか


1.はじめに
新型コロナウイルスの感染拡大防止に講じ、「ステイホーム」が政府によって呼びかけられた。人々は外出の自粛を余儀なくされ、自宅で過ごす時間が急激に増えた。また同時に、他者と触れあう時間が大幅に減り、親しい友人、離れて暮らす家族にさえ、容易に会うことができないとても耐えがたい状況が続いた。一方で、そのような会いたい人に会えない状況、いわば他者との交わりがほとんど断たれた状況であるからこそ、他者のことを思い、そこから他者を理解しようとする時間が以前に比べ増えたように思われる。またそのように他者のことを考え理解することで「他者に相対する自分」が映し出され、自己を理解する機会につながったという人も多いのではないだろうか。ゆえに、「他者のことを知ること」と「自己について知ること」、いわば「他者理解」と「自己理解」には繋がりがあるように思われる。
そこで、本レポートでは、「自己理解」と「他者理解」の繋がりについて、先行論文に併せ、古代ギリシアの哲学者プラトンの『饗宴 副題:恋について』を本論で取り上げ、論じていく。


2.問題の背景と主張
遠藤(2020)は、自己と他者について、「『自分』は自己完結している存在ではなく、社会や時代の中で常に他者と生きることを通じて形成されている存在であり、『私』は常に他者とあるのだ」と述べている。ゆえに、「自己理解」と「他者理解」は深く関わっていると考えられる。さらに、榊原(2022)は、「異なる背景的意味を携えた人と出会うと、違和感を伴ってその人の背景的意味が際立って認識され、それにいわば逆照射される形で、自分にとって『当たり前』だった自分の背景的意味も初めて意識化される」と述べ、「他者を理解することで、自己のこともより深く知ることになる。そして自己自身をより深く知ることは、他者をさらにより深く理解することにも繋がる」と主張する。このように、自己は常に他者と存在し、他者を見つめることで自己をあらため、そこから自己を知ることができるというように考えると、もはや「自己理解」とは「他者理解」であると言えるのではないだろうか。


3.「他者とのコミュニケーション」が果たす役割
前述した二者の主張に沿って考えると、「自己理解」とは「『絶対的になされるもの』というよりは、自分ではない何かに触れることで『相対的に得られるもの』」であると言える。では、「自分ではない何かに触れる」とはどういうことだろうか。それは「他者とのコミュニケーション」である。
コミュニケーションについて、遠藤(2020)は、「コミュニケーションの目的は『他者に理解してもらうこと』『他者を理解すること』にある」と述べている。
また、アメリカの心理学者アルダファーによって提唱された『ERG理論』において、「他者から認められ、他者から愛情を受け取ることで『人間関係の欲求』が満たされると、自尊心が高まり、自己実現が果たされ、それにより『成長欲求』が満たされる」と指摘されている。つまり、他者から認められ、他者から愛情を受け取るためになされる「他者とのコミュニケーション」を通じて、自尊心の向上や自己実現に伴う「自己理解」がなされるのである。ゆえに、「自分ではない何かに触れることで相対的に得られる『自己理解』」には、「他者とのコミュニケーション」が必要不可欠なのである。
したがって、「他者を理解すること」を目的とする「コミュニケーション」を通じて、自己を理解することができるのであるのだから、やはり、「自己理解」とは「他者理解」であることを説明することができる。


4.プラトン『饗宴:恋について』から考える「自己理解」と「他者理解」
前章では、「他者とのコミュケーションを通じて自己理解が得られる」ということを論じた。しかし、古代ギリシアの哲学者プラトン『饗宴 副題:恋について』(以下、『饗宴』とする)における思想に沿い、より踏み込んで再考すると、「『自己理解』と『他者理解』にはもはやコミュケーションなど必要としない」ようにも考えられる。
そこでは、アリストパネスの演説において、次のように述べられている。

原始、人間は男と女と男女(両性具有)の三種がいて、それぞれ男男、女女、男女が背中合わせに二体一身の状態だったわけだが、愚かにも神々に挑んだ為にゼウス(全知全能の神)によって片割れを切り離されてしまい、今の我々の姿になった。

だから我々は半身の片割れを求めるようになり、男らしい男は男を、女らしい女は女を、中途半端な多くの人間は異性を求めるようになった。

つまり、現世にはかつて二体一身であった二者が存在し、「目の前にいる『他者』が自分と一心同体の存在である」といったことが有り得るのである。(但しここで示す「他者」とは、「不特定多数の『他者』」ではなく、自身の頭に思い浮かぶ「特定の『他者』」である。)
また、『饗宴』における思想を反映していると言われる、アメリカ人作家アンドレ・アシマンの小説『Call Me By Your Name』(邦題:『君の名前で僕を呼んで』)では、題名にもあるように惹かれ合う二人の青年が「自分の名前で相手を呼ぶ」ことで、自らの「片割れ」と一体感を求め合う場面がある。さらに本書には次のような一節がある。

君の体を知りたい、君がどう感じるのか知りたい、君を知りたい、君を通じて僕自身を知りたい。

この一節から、『饗宴』における思想が本書に表れていることがより明確に理解することができる。特に「君を通じて僕自身を知りたい」といった表現には、「自己と『片割れ』としての他者は一体している」といった『饗宴』の核となる思想が顕著に見受けられる。
またスペイン語のことわざに「Tu eres mi media naranja(「あなたは、私のオレンジの片割れ」)という有名なフレーズがある。これもまた再三にわたり述べてきた「自己と他者の一体性」を指摘する『饗宴』における思想を根源としている。
このように『饗宴』における思想、及びそこから派生される小説における一節やことわざに準じて考えると、やはり「自己」と「他者」には繋がりがあるように見受けられる。また同時に、「片割れ」においては、「自己」と「他者」は一心同体の存在であり、コミュケーションを介すことなく、「自己」のこととまさに同じように「他者」のことを、「他者」のこととまさに同じように「自己」のことを理解することができるのである。ゆえに、ここでは、「自己理解」と「他者理解」は繋がりがあるどころか、もはや同一のものである、といったかなり踏み込んだ考察が可能となる。


5.おわりに
「自己理解」と「他者理解」の繋がりについて、「自己理解」は、他者から認められ、他者から愛情を受け取るためになされる「コミュニケーション」を通じて得られるものであることを論じた。また「自身の『片割れ』としての『他者』と『自己』は一心同体の存在である」といったプラトン『饗宴』における思想、及びその思想が反映された小説における一節やことわざを挙げ、「『自己を理解すること』と『他者を理解すること』は同一である」といったさらに掘り下げた考察をおこなった。
ゆえに序章で示した「『他者理解』と『自己理解』には繋がりがある」ということが確認された。また「他者を理解すること」を目的とする「コミュニケーション」を介することで、自身の「片割れ」である「他者」に出会い、「『自己理解』と『他者理解』の同一性」を肌で認識することがあるかもしれない。ゆえに自分を見失いそうになった時、ひとりで考え込むことよりも、むしろ他者との関わりが重要であるといえるだろう。見失った「自己」を「他者」が見つけてくれることがあるかもしれない。